世の中と人生に絶望と無意味を感じ、自殺を図るも一命を取り留めた主人公の山田羽仁男。自分は一度死んだ身と、新聞の求職欄に「命売ります」という広告を出す。
広告を見て、命を買いたいと羽仁男の元に訪れる依頼人たちは、別の男に寝取られた妻の殺したいという老人、吸血鬼を母に持つ少年、スパイ、など怪しげな面々。彼らの依頼をためらうことなく、軽やかにこなしていくうちに、数々のトラブルに巻き込まれていく。
命を捨てた身でとにかく「怖いものなし」、危険をものともせず依頼のままに動く羽仁男は、読んでいて正直「なんだこいつ」という印象で、不必要にカッコつけている奴に思えた。文武両道で世の中を達観した三島由紀夫の、これが自己像なのか?とも。文字を追うたび、三島の顔が頭にチラつく。
しかし物語が進み、自身に危険が近づいていくるにつれ、捨てたはずの命への執着、生きたいという極めて凡庸な渇望に再びたどり着く。世の中を諦め、嘲笑していたはずなのに。
実は三島の作品は1冊も読んだことがない。食わず嫌いとかそういう理由ではなく、ただなんとなく。好きなメタルバンド「人間椅子」に同名曲があり、そこから興味を持って読み始めたのがきっかけだった。
自分の中の三島像も、ナルシスト、ムキムキボディ、軍服姿に割腹自殺、右翼的思想など断片的知識で、はっきりとした輪郭はない。
いささか牽強付会だが、今日的なジェンダー視点を持ち込むと、いわゆる男らしさ、今では「有害な男らしさ」としてマイナスのイメージで語られることも多くなった、この男性特有の性向を連想した。
感情を表に出さず、恐怖をものともせず、時に暴力的に、時に冷徹に振る舞う。それが虚勢だったり負け惜しみだったりしても。理想的とされるこうした男性イメージは、男性自身に危害と生きづらさをもたらす。
だから有害な男らしさなのだが、羽仁男はこの男らしさを演じて見せているように感じた。そういえば三島のイメージもこれをなぞっているように見える。三島は自身の男性性に葛藤を抱えていたのか?と勝手ながらに想像した。よく考えると、割腹自殺なんて究極の強がりではないか。
ナルシスティックで難解な三島作品の中では特殊で、読みやすい、通俗的なエンタメ小説なのだという。1968年に週刊プレイボーイに連載されていたため、当時の若者向けということらしい。
エンタメ小説なのに、どこか私小説的でもあるとしたら、初三島としてはラッキーだったのかもしれない。逆にこの作品を入口にして別の三島作品を読もうとしたら、痛い目に遭うということか。ということで、他の作品に手を出せずにいる。